大人の時間
金曜日の夜に大人の時間を堪能してきました。
スノドカフェで行われた学びの企画です
オルタナティブスペース・スノドカフェ ~学びの企画~日時 2月13日(金)20:00〜22:00
Knowledge walk Friday vol.1(仮)
授業内容「近代(モダン)芸術と哲学」 講師 澤田哲生(パリ東大学、哲学博士)
とてもいい企画でした。講座を創りだす、参加者の話し合いがまたよかった。おとなだなあ
哲学を学びたいとおもっていたので嬉しい企画でした。
西洋の哲学ってわたしはよくわからなかったんですが、考えさせられるテーマなかなか難しい。
わたしは瞬時に言語化できずに、(もやもや感があって)やっと時間が経ってかけますが、瞬時に自分の言葉にできることがすごいな。課題だ。
(話下手と人間恐怖症と頭が混乱)
澤田哲生先生に直接質問できた事もよかったです。(最後に)
わたしはお話を聞いてとても興味があったことは
メルロ=ポンティという哲学者は、身体=物質、魂という西洋的な考え方はしていないということでした。独自に動きがある(ちょっとまだわからない)
その話を聞いて、このメルロ=ポンティという哲学はとても東洋哲学に近いなと思い、その事を話したらやはり
先生の友人がメルロ=ポンティ論文で「メルロ=ポンティと仏教」という物を書いている方がいるという事を聞き、なるほどなあと思った。
あと、近代ではないが、伝承されているものは,正しい知識を模倣する事だと思うし(いいグル『師匠』が必要)、子育てや教育も模倣だと思う。
メルロ=ポンティの児童についてや身体について(医学にも通ずる)の視点ももっと聞きたかった(本題からそれるけど)
芸術においての模倣は、基礎でそこからの発展が必要なんだと思う。自然を描く事でも模倣だし。(科学もある意味そう?もっとコピーに近いか?)
模倣は単なるコピーではない。そうだと思う。ズレについてわたしはそこが文化なんじゃないかと思う。
まったくのコピーだけでは何も生まれない。100人人がいて、100通りの物理的な変わった身体があり、そして出生の環境の
あらゆるズレがもうあり、もちろんその考えも違っている。物理的にももうすでに視点は違っていると思う。(見え方も物理的にちがうんじゃないかなあ?)
もうすでにズレは生じている。(ズレとかゆらぎとか、量子力学みたいだね、やっぱりそこから何か生ずるのか?)
キュビズムは正に空間を解放する手段だった過程だった。意味があるズレだと思う。
芸術において、何を対象物にするかとうことが、作家には問われる。時代によって変化しているし。自然の大いなる力、神、宗教、権力者の肖像
職人としての、そして、産業革命後の個人的な視点、または探求と解放。解放しきった今、自由という名の束縛がある。
今は社会的なものがテーマだったり、商業化もされていて、デザインとアートの境界もなくなって来ていると思う。
わたしの対象物は、やはり、大いなる自然の力、神、相対的な物(陰陽のような)目を背ける様なもの、そしてホームレス。
学びが必要だけど、正しい思想とメッセージだと思う。わたしには東洋の思想に真理が隠されている気がする。
前にも日記で書いた事があるけれどわたしはホームレスに惹かれる。
それはわたしが似ているか同じだからかもしれない。
あこがれなのかもしれない。みんながいろいろな状況でそうなったのだと思うのだけど。なりたくなくても。
東京にいた時に、新宿のホームレスさんたちと、食事したことがあるんだけど
ホームレスさんたちも、いろいろな方がいて、本格的サデゥー派から日雇い派から、私は日雇い派の方々と、食事をもらって宴会。
しかし、想像よりも過酷な食事で、申し訳ないんだけど、吐きそうになってしまいました。すみません。
でもとてもいい人達だった。話の内容はわすれたけど。
最近インドの思想を学んで、やっと考えがシンクロというか繋がってきた。
何が大事かというと、私はホームレスさんの中に神(良い所、善性)を見たんだってこと。
ラーマクリシュナ(インドの近代宗教家)のように、人を見て、その人の中にある神(良い所、善性)を見て三昧(瞑想状態)に入る、
とまではいかないけれど、例えば、犯罪を犯している人でさえ(許される事ではないが)内なる神というかいいところがある。
その善性を生かすか殺すか、まわりの環境で変わる。親。師。人。社会。出会い。
わたしは物欲の固まりでとても無理だけど、捨てるということに憧れるのかもしれない。
つまり、ブッダも自分の子供を踏んずけて、王族を捨てて、ヨーガの修行に出たように、そういうものに憧れるんでしょうか?
彼は、子煩悩も捨てた。子煩悩も煩悩のうちなんです。わたしはとても無理だ。悟りは求められない。(わたしは真理を知りたいのですが)
在家として生きていくしかない。カルマヨーガではそのことの重要性も書いてある。それも大事だと。(いかなる宗教とも違いますよ〜)
もちろん、社会で貢献して、働いて、養ってというのも、悟りに近いぐらい素晴らしい事。お金儲けは悪い事ではない。(それで人を助けることもできる)
カルマヨーガでもそういっています。在家でも十分に悟りの学びはできる。
そんな自我、エゴを捨てるのを目指すと、本当に作品を作る事なんて意味がない様な気がしてしまう。
どうしてこうのようにしてしまうのか(作ろうとしてしまうのか)しりたい
尊敬の念で、ホームレスさんたちにギャラリーに滞在してもらおうか。
ある意味作品なんてどうでもいいかもしれない。それもエゴなきがする。
オノヨーコの絵のない絵本のように、言葉だけでイメージするか、絵を捨てたマルセル・デュシャンもわかる。
でも、どちらにせよ、良いエネルギーの徳になる芸術をやっていきたいな。ただそれだけだ。あとは自己探求。
なんせ未熟者。(もうすでにズレまくってそうですが〜(笑))小我より大我。
単純にパション、ハートで、無心で
商品化でなく心で作りたい
そして,学びの場を与えてくれたスノドやその方々に感謝。またやってほしいなあ。
スノドカフェで行われた学びの企画です
オルタナティブスペース・スノドカフェ ~学びの企画~日時 2月13日(金)20:00〜22:00
Knowledge walk Friday vol.1(仮)
授業内容「近代(モダン)芸術と哲学」 講師 澤田哲生(パリ東大学、哲学博士)
とてもいい企画でした。講座を創りだす、参加者の話し合いがまたよかった。おとなだなあ
哲学を学びたいとおもっていたので嬉しい企画でした。
西洋の哲学ってわたしはよくわからなかったんですが、考えさせられるテーマなかなか難しい。
わたしは瞬時に言語化できずに、(もやもや感があって)やっと時間が経ってかけますが、瞬時に自分の言葉にできることがすごいな。課題だ。
(話下手と人間恐怖症と頭が混乱)
澤田哲生先生に直接質問できた事もよかったです。(最後に)
わたしはお話を聞いてとても興味があったことは
メルロ=ポンティという哲学者は、身体=物質、魂という西洋的な考え方はしていないということでした。独自に動きがある(ちょっとまだわからない)
その話を聞いて、このメルロ=ポンティという哲学はとても東洋哲学に近いなと思い、その事を話したらやはり
先生の友人がメルロ=ポンティ論文で「メルロ=ポンティと仏教」という物を書いている方がいるという事を聞き、なるほどなあと思った。
あと、近代ではないが、伝承されているものは,正しい知識を模倣する事だと思うし(いいグル『師匠』が必要)、子育てや教育も模倣だと思う。
メルロ=ポンティの児童についてや身体について(医学にも通ずる)の視点ももっと聞きたかった(本題からそれるけど)
芸術においての模倣は、基礎でそこからの発展が必要なんだと思う。自然を描く事でも模倣だし。(科学もある意味そう?もっとコピーに近いか?)
模倣は単なるコピーではない。そうだと思う。ズレについてわたしはそこが文化なんじゃないかと思う。
まったくのコピーだけでは何も生まれない。100人人がいて、100通りの物理的な変わった身体があり、そして出生の環境の
あらゆるズレがもうあり、もちろんその考えも違っている。物理的にももうすでに視点は違っていると思う。(見え方も物理的にちがうんじゃないかなあ?)
もうすでにズレは生じている。(ズレとかゆらぎとか、量子力学みたいだね、やっぱりそこから何か生ずるのか?)
キュビズムは正に空間を解放する手段だった過程だった。意味があるズレだと思う。
芸術において、何を対象物にするかとうことが、作家には問われる。時代によって変化しているし。自然の大いなる力、神、宗教、権力者の肖像
職人としての、そして、産業革命後の個人的な視点、または探求と解放。解放しきった今、自由という名の束縛がある。
今は社会的なものがテーマだったり、商業化もされていて、デザインとアートの境界もなくなって来ていると思う。
わたしの対象物は、やはり、大いなる自然の力、神、相対的な物(陰陽のような)目を背ける様なもの、そしてホームレス。
学びが必要だけど、正しい思想とメッセージだと思う。わたしには東洋の思想に真理が隠されている気がする。
前にも日記で書いた事があるけれどわたしはホームレスに惹かれる。
それはわたしが似ているか同じだからかもしれない。
あこがれなのかもしれない。みんながいろいろな状況でそうなったのだと思うのだけど。なりたくなくても。
東京にいた時に、新宿のホームレスさんたちと、食事したことがあるんだけど
ホームレスさんたちも、いろいろな方がいて、本格的サデゥー派から日雇い派から、私は日雇い派の方々と、食事をもらって宴会。
しかし、想像よりも過酷な食事で、申し訳ないんだけど、吐きそうになってしまいました。すみません。
でもとてもいい人達だった。話の内容はわすれたけど。
最近インドの思想を学んで、やっと考えがシンクロというか繋がってきた。
何が大事かというと、私はホームレスさんの中に神(良い所、善性)を見たんだってこと。
ラーマクリシュナ(インドの近代宗教家)のように、人を見て、その人の中にある神(良い所、善性)を見て三昧(瞑想状態)に入る、
とまではいかないけれど、例えば、犯罪を犯している人でさえ(許される事ではないが)内なる神というかいいところがある。
その善性を生かすか殺すか、まわりの環境で変わる。親。師。人。社会。出会い。
わたしは物欲の固まりでとても無理だけど、捨てるということに憧れるのかもしれない。
つまり、ブッダも自分の子供を踏んずけて、王族を捨てて、ヨーガの修行に出たように、そういうものに憧れるんでしょうか?
彼は、子煩悩も捨てた。子煩悩も煩悩のうちなんです。わたしはとても無理だ。悟りは求められない。(わたしは真理を知りたいのですが)
在家として生きていくしかない。カルマヨーガではそのことの重要性も書いてある。それも大事だと。(いかなる宗教とも違いますよ〜)
もちろん、社会で貢献して、働いて、養ってというのも、悟りに近いぐらい素晴らしい事。お金儲けは悪い事ではない。(それで人を助けることもできる)
カルマヨーガでもそういっています。在家でも十分に悟りの学びはできる。
そんな自我、エゴを捨てるのを目指すと、本当に作品を作る事なんて意味がない様な気がしてしまう。
どうしてこうのようにしてしまうのか(作ろうとしてしまうのか)しりたい
尊敬の念で、ホームレスさんたちにギャラリーに滞在してもらおうか。
ある意味作品なんてどうでもいいかもしれない。それもエゴなきがする。
オノヨーコの絵のない絵本のように、言葉だけでイメージするか、絵を捨てたマルセル・デュシャンもわかる。
でも、どちらにせよ、良いエネルギーの徳になる芸術をやっていきたいな。ただそれだけだ。あとは自己探求。
なんせ未熟者。(もうすでにズレまくってそうですが〜(笑))小我より大我。
単純にパション、ハートで、無心で
商品化でなく心で作りたい
そして,学びの場を与えてくれたスノドやその方々に感謝。またやってほしいなあ。